沖田隊長の最期を看取ったのは局長と副長と俺だった。はそこにいなかった。 それが良かったのか、悪かったのかは誰にも分からない。 俺は別室で医者と話を済ませ、近藤さんと沖田隊長を残した部屋に戻ろうと廊下を歩いていたところに、 向かい側から副長が歩いて来るのが見えた。後ろに表情の無いがついている。 遂にこの時が来てしまったのだと思った。は壊れてしまうだろうか。精神の奥底から、脆く剥がれて崩れるように。 土方さん達が此処に来るより先に障子を開けると、未だ沖田隊長の手を大切そうに握ったままの局長が顔を上げた。 色濃く哀しみを刻んだ目と目が合って、俺が一度小さく頷くように合図すると、近藤さんもそっと頷いた。 俺は大声で泣き出して、逃げ出したいような気分でいっぱいになる。 ふと視線を薄暗い部屋に流せばもう二度と目を覚ましてはくれない沖田隊長が横になっていて、 明日にはもう灰になってしまうのだと思うと、どうにも実感が湧かないのに、 そんな俺を無視して自分の何処かで残酷にも冷静に現実を認知している自分が涙を促すのだ。 昨日の昼時に隊長から外出の許可を出してくれと頼まれた俺は、勿論それを断った。







「あなたには一日でも長く、真撰組として生きていて頂かなければならないんです」







「どーせ死ぬんだ」







「、それでも、」







「俺が死んだら、はどうすんでィ」















副長にも相当粘って許可を貰ったと言う。そうした思いを知っていてか知らずしてか、 夕刻、隊長に手を引かれて外へ出て行ったは、いったい何を話したのだろう。







副長とが部屋の前まで来て、立ち止まる。 副長がの前を退いて、は横になっている隊長をぼんやりと見ていたが、 俺も副長も、局長も、を直視することが出来ず皆それぞれに瞼を伏せた。 するとが、消え入りそうに小さな声で呟くように言葉を漏らしたのが聞こえた。




















「沖田隊長、寝てる」


























その晩通夜が行われた部屋に、はいなかった。 通夜は屯所内でしめやかに行われ、縁側で一人ゆらゆらと足を揺らしながら月を見上げているに、 近藤や土方、山崎、隊内の仲間、女中、真撰組のほとんどの人間が声をかけたが、 誰が何を言おうとも、何も語らない表情で首を横に振るだけだった。 そんな彼女を誰一人無理矢理通夜に参加させるようなことはしなかったし、彼女に何か慰みを説くこともなかった。



月明かりの明るい夜だったが、空に多く広がる雲は悪戯にその光を隠しては覗かせた。 は月が隠されては光を待ち、月が覗いては目を細めてそれを見つめていた。 少し離れた部屋で行われている儀式から溢れ流れて来る慟哭と啜り泣く声を、 まったく別世界で起こっている事と感じているようで、どれほどの悲しみの声が耳に届こうとも は必死で微かな虫の声に耳を澄ませ、それだけを拾った。



通夜が終わってすぐ、の傍へ寄って来たのは近藤だった。 通夜の間中流し続けていた涙を止め、優しい笑みを作って、 に目線を合わせるようにしゃがみ込みなだめるような声で彼女を呼んだ。







「総悟と二人で話すか?」







その問いかけにはしばらく沈黙して月を見上げたままだったが、 ようやく視線を近藤に向け、初めてこくりと首を縦に振った。 数回頭を撫でられて立ち上がり、近藤に手を引かれて冷えた板の間の上を歩いていって、 誰もいない、沖田だけが眠っている部屋の障子を開ける。 障子を透かされて入る月明かり以外に光は無く、薄暗い部屋で眠る沖田を見て、は少しの間立ち尽くす。 ひどく、静かだった。空気の流れすらも静止しているようで、 耳鳴りがするような冷たい空気の中ではただただ沖田を見ていた。 そして近藤の手を自ら離し、初めて沖田に歩み寄った。 傍らに膝を折って正座し、やっとのことで出されたような声で、沖田の顔を覗き込み、 何かに怯えたように呼びかける。「沖田隊長、」





近藤の後ろからやって来た土方が、様子を見て彼の肩を軽く叩き、障子を閉めた。 それから二人、その部屋の前に胡坐を掻いて座り込んだ。俯いた近藤は泣いていた。 土方は、いつものように煙草は吸わないでただ月を見上げていた。少々欠けていたが、眩しい月だった。



















はふと、頬に手を伸ばし、貼られていたガーゼを剥がす。 意外にも深かった傷は縫合されてまだ抜糸がされていない状態で痛々しく頬に存在していた。 傷口を消毒されているときも、縫い合わされているときも、痛いとは一言も言わなかった。 痛くないはずはないのだが、頑なに結んだ唇を少しも震わせず、時々眉を顰めるだけで一つも弱音を零さなかった。 沖田隊長が付けてくれた傷だから。と、心配した顔の山崎にぎこちなく微笑んだ。







「顔に傷残るって、言われちゃった」






怖いくらいに白く綺麗な顔をして眠っている沖田の顔を見ながら、は薄く微笑みを浮かべて言葉をかけた。
傷痕を指で慈しむように撫でながら、痛いという感覚を噛みしめる。







お嫁にいけなくなっちゃうよ、隊長、」







笑って言って、傷から手を放した。
当然、黙ったままぴくりとも動かない沖田を見つめ、はおずおずと伸ばした手で沖田を揺らす。







「――――起きて、隊長」







の目からはもう笑顔は消えていたが、口元にはまだ不自然な笑みが張り付いたままだった。







「はやく起きてくれなきゃ、土方さんに怒られちゃう、」







沖田の腕を掴んで揺すっても、彼が目を開けることはない。 障子の向こうで聞こえてくる声を耳にしていた土方は俯いて、強く目を瞑って震えそうになる息を殺した。 は目を覚ますことのない沖田を揺するのを止めて、腹の上で丁寧に組まれた沖田の手にそっと触れ、握った。







「またお散歩、行きましょうね、」







、隊長に見せたい景色があるんです」







「ちょっと遠いけど、こっそりパトカー使っちゃえばすぐですから、」







「こっそり、だれにも、ばれないように、」







と隊長の秘密に、して、」













組まれていた沖田の手を崩して片手を取って、はそれを両手で、自分の胸の前でぎゅっと握った。
静寂が満ちている。もう虫の泣き声すら聞こえない。
自分の中に飼った孤独がキンと甲高い音で鳴る、その音しか聞こえない。


ぱた、と手の上に涙が一滴落ちた。
























「………つめたい、」







次々と、何粒もの涙が沖田の手を包み込んだの両手の上に、音を立てるわけでもなく落下する。





















「つめたいよ、沖田隊長…っ、」














は両手で大事に沖田の左手を握り締めたまま布団の上に崩れて、泣いた。 あんなに熱く、あったかく、自分の手を包んで引いてくれた手。同じ手だと言うのに、どうしてこんなにも冷え切っているのか。 幼い頃この手に繋いでもらわなければ、自分は今此処にはいなかった。 この手がたとえどれだけの人間の不幸を創って来たとしても、にとってはこの世で唯一救いをくれた手でしかなかった。 それがこんなにも簡単に、それも、戦場でもない、こんなにも冷たく陰鬱な、薄暗い部屋で奪われてしまうなんて、誰が知っていただろう。 沖田隊長、沖田隊長、と救いを求めるように繰り返す声が自分の心の中だけで叫んでいるのか、実際に声になっているのかわからなかった。 返事をしてくれない、沖田隊長、と呼んだら振り返って、何だと微かに笑ってくれる彼は、もう、いない。

ああどうして、どうしてどうしてどうして、。話したいことがたくさんあった、訊きたいことがたくさんあった、一緒にしてみたいことが、 一緒に見てみたいものが、まだまだたくさんあった。あったんだよ、隊長。ねえお願いだから、いつもみたいに眠たそうに目を覚まして、 うるせーなって怒って、馬鹿だなァって、笑って、ねえ、沖田隊長。お願いお願いお願い、沖田隊長を返して、




呼吸とともに吐き出される押し殺した泣き声は部屋の外で座り込んでいる近藤と土方にも届いていて、 近藤も同じく食いしばった歯の隙間から堪え切れない慟哭を漏らし、土方は俯いたまま目頭を押さえて静かに泣いた。





先程まで雲間を覗いたり隠れたりしていた月は随分と増えた雲に覆われて、再び顔を出すことはなかった。















(  ―――――――、 )