先輩!」



春の風にゆらゆらと髪を遊ばせて、相変わらず歌っているように、 軽く弾むように歩く姿を裏庭で見つけ、俺は思わず大声で引きとめた。 すると先輩は足を止めて振り向き、俺を見ると相変わらず優しくふ、と微笑んだ。 風に流される髪を押さえる姿が、なんだかどうしようもなく綺麗で好きだと思った。




「どーしたのー準太ー」




俺が先輩の顔を見ただけで心拍数を早めたことなど少しも知らない先輩が呑気な声を投げてきた。 先輩の近くまで駆け寄ってはみたがどう答えていいのかわからない。 どうしたの、と問われても理由は無い。まさか会いたかったなどと言えるものか。 いや、と言葉を探し視線を逸らすと、先輩の手が俺の額に触れた。 どきっとして一瞬にして動きが固まった。「汗かいてるよ、準太」先輩はあはは、とやっぱり呑気に笑っている。




「そんなに捜してくれてたの?」
「あー、軽く校舎中走り回りました」
「うそ、ごめんねえ」




「全然平気っす」俺はぐいっと額の汗を腕で雑に拭って、ようやく先輩と目を合わせた。 先輩は薄く口元に笑みを浮かべたまま、身長差のせいで見上げるように俺を見ていた。 くるりとした目は少しだけ赤く、俺は卒業式の間中泣いていたであろう先輩を容易に想像する。 俺の手のマメを見て、頑張ってるねえと涙を浮かべたこともあった。 試合に負けたときも一番一番泣いていたのは先輩だった。 先輩はすぐに泣く。そして人の為に泣ける人だ。 ああなんて、なんて可愛い人なんだろう。 そう思ったらどんどん鼓動が早くなるのを感じて、俺はやっぱり目を逸らした。 すると先輩はなによ、と笑って卒業証書の入った筒で俺を小突く。 そんな何気ない行為ひとつひとつには意味など無いのだろうけど、 俺にとってはどれもがどきっとするもので、先輩を好きだと感じるものになる。 でもどれもがもう今日でなくなってしまう。明日から学校で先輩の姿を見かけることは無い。 俺はぐ、と姿勢を正して先輩を真っ直ぐに見た。




「卒業、おめでとうございます」




ばさばさとまだ冷たい風が吹いて、先輩の柔らかで清潔感のある匂いが鼻を掠めた。
先輩はなぜかきょとんとした顔をして、こくんと頷く。




「うん」
「うん、って何すか」




思わず笑うと、先輩は悪戯っぽく首を傾いで、もういっぱい言われたもん、と言った。 そんな実感ないのになあと言いながら俯き、 かぽんと筒を開けてみたり閉めてみたりする先輩はなんだか小さく見えた。 薄く茶色に染められた髪が太陽の光を吸い込んで甘く揺れている。 部員に優しく触れて癒してきた指先が髪を耳にかけ、髪に隠れていた分の表情を見せた。 それは去年の春、先輩の髪にくっついていた桜の花びらを取ってやったときに見せた、 はにかんだような表情を鮮明に思い出させた。桜はまだ咲かない。 冬の色をした木が立ち並んで、風により細い枝を鳴かせている。 先輩は揺らぐ髪を右手で押さえて、にかっと笑って俺の名前を呼んだ。




「準太、今までありがとね」




ポコッと筒で頭を軽く叩かれて、あまりに満ち足りたその笑顔を見て俺は何故だか少し泣きそうになった。 ――ああ、終わる。本当に。 先輩が居なくなるという事実が今更ながら現実味を帯びてきて、俺は喉の奥から必死で声を絞り出す。 好きだ好きだ好きだ。ずっと思い続けてきたこと。ずっと口に出来なかったこと。




「俺、」




ぐっと拳を握ってどんどんと速くなる鼓動を抑えながらようやく声を出してみた。 先輩は何か言いたそうな俺を首を傾いで覗き込む。 茶色く澄んだ目は俺を映していて、茶色の髪に埋もれた小さな耳は俺の声を聞くために澄まされている。 好きですの一言が声にならない。今言わなかったらいつ言えるかわからない。 わかってはいるけれど、伝えたい言葉がギリギリまで出掛かっては酸素と一緒にまた肺へ戻されていく。 何かを言いかけてはやめる俺を見て、先輩はただ穏やかに俺の言葉を待ってくれている。 先輩の口元に浮かぶ薄い笑みが綺麗で、俺は静かに息を飲んだ。









恋焦がれたドルチェ
(―――「好きです、」)