穏やかな昼下がり、事務処理を一つ終えて廊下に出ると、庭でさんが洗濯物を干しているのが見えた。 ちょうどすべてを干し終えたところだったのか、腕を伸ばして清々しそうに伸びをしたあと、 真っ白のシーツが風に揺れているのを眩しそうに見ていた。 俺は吸い寄せられるように、さんの近くまで廊下を歩いて行った。 縁側からさんの背中に声をかけようとしたが、 先ほどまで気持ちよさそうに伸びていた背中は小さく丸まって、 彼女は両手を合わせてうつむき、静かに何かを祈っていた。


一年ほど前に此処で働くようになったさんが、 恋人を亡くしているという話を聞いたことがあるのをふと思い出した。 それでも彼女は毎日笑ってこの真撰組のために働いてくれているし、 そんな過去があるようには思えないくらいだったから、すっかり忘れていたことだった。 というより、そんな過去の話を彼女から聞いたことはなかったし、 その話は事実ではないのかもしれないとすら思っていた。 けれど、今この少しも動かないで陽だまりの中でひたすらに祈っている小さな背中を見たら、 その話は事実であったと考えるしかなくて、俺は陰になっている縁側で、体が冷えて行くのを感じた。 消え入りそうな彼女の背中に、今まで見えなかった暗く重い荷物が見えるようで、声をかけることができない。 俺は彼女に小さな好意を寄せていた。それゆえに、その重い荷物がとてもとても気になった。 なんだか気が遠くなるようで両足を少し動かしたらぎい、と板の間が鳴いて、さんが振り向く。 彼女は俺を見るといつもの笑顔で笑った。




「山崎さん、お疲れさまです」
「うん…さんも」
「今お茶を淹れようかと思っていたところなんですよ」




彼女は洗濯物を干し終えて空になった大きなかごを両手で持って、 美味しい茶葉が入ったんですよと言った。 俺があいまいな表情で笑い返すと、ちょっと待っててくださいねと立ち去って行こうとしたから、 俺は一つ息を飲んで引きとめる。「あの、」 さんは立ち止まって振り返り、首を傾ぐ。「なんでしょう?」 彼女の過去に触れられるのは、今しかないと思った。




「何を、祈ってたんですか」




口がからりと渇いていた。少し間があいた後、暖かそうな陽の中で、 さんは口元に薄い頬笑みを残したまま、ああ、と長い睫毛を伏せた。 それから一度伏せた瞼を上げて黒い瞳で俺を見る。




「私事ですよ?」
「それでも、聞かせていただけませんか」




さんが構わなければ、と付け加えると、彼女は眉を下げて困ったように笑った。 それはよく、居眠りしている沖田隊長を起こしに行って、なかなか起きない隊長を見ているときに見せる顔と似ていた。 俺が彼女にこんな顔をさせるのは初めてだった。どこか胸が痛くて、だけどどうしても聞きたくて、 少し迷っているような彼女の言葉が零れるのを待った。各々が街中で仕事をしているせいか、屯所はひどく静かで穏やかだ。 ぱたぱたと洗濯物が風に揺れる平和な音まで聞こえてくる。少し離れた稽古場から、竹刀の音や掛け声も響いてきている。 さんの形のいい唇がためらいがちに、ゆっくり開く。




「彼が死んでしまったのも、今日みたいな、冬の晴れた日だったんです」
「……彼、」
「私の恋人です」




彼女は視線を伏せて、緩やかな笑みを浮かべながら言葉を紡いだ。 二年前に、恋人を飛行機事故で亡くしたということ、 その「彼」が近藤さんの古い知り合いで、自分は近藤さんに拾われたんだということ、 墓は江戸から遠いところにあって、ずっと墓参りに行っていないために 此処から祈っていたんだいうようなことを丁寧に話してくれた。 俺は初めて聞くことばかりで、自分から尋ねておきながら何も言えずにそれらをただ黙って聞いていた。 まったく知らない人と、まったく知らない世界を生きていた過去の話をする彼女は、いつもと別の人間のように思えて遠かった。 俺は彼女との距離を感じながら、知らぬ間にさんをとてもとても好きになっていたんだということに気付く。こんな時に。 さんは視線を俺に向けて、よくあるお話でしょう、と笑う。 俺は自分がどんな顔をしていたのかわからなくて、ただあいまいに首を横に振った。




「私、お茶を淹れて来ますね。夕飯の用意もしなきゃ」




失礼します、と彼女は頭を下げてくるりと踵を返し去っていく。 これからもずっと、きっとさんはこの屯所で働いてくれるだろうし、 会えなくなるわけではけっしてない。だから話をする機会だってたくさんあるだろう。 けれど今でなくてはいけない気がして、何かに弾かれたように、 離れていく小さな背中を名前を呼んで引きとめた。彼女は足を止めて首だけで振り向く。 俺は少し大きな声で問いかける。




「もし、」




「もし俺が、さんを、」




なかなか思うように出てくれない言葉を投げていると、さんは続きを待たずに「山崎さん」と遮った。 困ったように、眉を下げて笑うあの笑顔に、俺は言葉を継げなくなった。 そしてまた小さな背中は離れていく。情けないことに、俺には彼女の腕を掴んで引き寄せ、抱きしめて、 彼女のすべてを無理矢理にでも包み込んでやるほどの器が無かった。 どうしようもないほどに震える想いを、拳に集めて握り潰すことしか出来なかった。











置いてけぼりの昼下がり
( 情けない自分は彼女の痛みに触れられない、 )