その日は雨が降っていた。 ああこんな日に、せめてお天気だけでも晴れ晴れとしていていいじゃないか、と少し神様を憎んでいたと思う。 いや、実際は大いに憎んでいたのかもしれない。 今思えば、神様に悪いことをしたなあなんて思って笑う。ごめんなさい。 心の中でわたしは、やっぱり少し笑いながら神様に謝った。

目をゆったりつぶって1秒数えて、わたしは視界を確保する。 教室の窓から、桜が雨に打たれてはらはらと落ちる様を見たとき、わたしはただただぼおっとしながら考えていた。阿部くんの立ち位置、わたしの座っている場所、次の言葉をどうしようかということ。 今日で最後だね。これはなんとなくありきたり。 実は阿部くんのこと好きだったの。お互いしってるそんなこと、付き合ってるんだから。 急な転校が決まってごめんね。わたしだって頭がついていってないのに。 こういうとき、どんな言葉がぴったりなんだろう。阿部くんはなんにも喋らないし、 わたしもただ窓の外を見ているだけだし、つまりとっても気まずい。 仮にも恋人同士の最後の日が(いや、別れるわけではないけれど)、こんなことでいいんだろうか。 わたしはなんだかやるせなくなってしまって、短いけれど、深いため息をついた。 それと同時に、阿部くんは小さく音をたててからわたしの前の席に座った。 しっかり私の方をむいて目を逸らさない阿部くんを見て、わたしは本当に彼のことが好きだなあと思った。 阿部くんはわたしのほほに手を置いた。 阿部くんの手は大きくて、骨もしっかりしていて、それからやっぱり荒れていた。 わたしはこの手が大好きで大好きで仕方なくて愛しくて、 そうだった、わたしは彼と分かれたくなんてないんだと、強く強く思った。 「悲しいの」やっと口に出すことのできた言葉は、小さく揺れた気がした。 阿部くんはやっぱりなんにも言わずに、その手をわたしの髪の毛に移動させた。 するすると阿部くんの手からすり抜けて落ちる髪の毛は、 まるでわたしのものじゃないみたいにいとも簡単に離れていった。

「あ」と阿部くんが、窓の外を見て言った。 なに、とわたしが呟く前に、その景色にわたしの言葉はのみ込まれた。 さっきまで降っていた雨は止んでいて、少し咲くのが早かった桜が太陽の光に反射して、ゆっくり舞っている。 それはまるで、世界の最後を見たような美しさで、急に、鼻の奥がツンとした。 実際には最後なんて知らないしこれからもわからないんだろうけど、 そのときのわたしには、きっと阿部くんと離れることが世界の終わりのような気がしていたんだと思う。 目だけで阿部くんを盗み見ると、阿部くんも、わたしと同じような顔をしていた気がする。 びっくりしたような、素敵すぎるものを見てしまったような、そんな顔。
わたしは言う。「ねえ、外を歩かない?」



さっきまでの雨の寒さが嘘のように遠のいていて、春の暖かさがじんわりと伝わってくる。 桜はしっかりと、だけどかすかな寂しさをはらんでわたしたちの間を通り抜けていった。 横にいる阿部くんまでの距離は、たった30センチメートル。 この距離は心地よくて、大好きだった。 それが、遠くなって行く。 阿部くんの手に、触れることすらなくなっていく。 どうしてなんだろう。 この世界はこんなにこんなに綺麗で、こうしてわたしたちは一緒に歩いているというのに。 どうしてわたしは素直に喜べないんだろう。 どうしてわたしはうつむいて涙を堪えてるんだろう。 どうすれば、彼の手にもう一度触れられるんだろう。 そんなことを考えていると、突然、強い風がぶわりと流れた。 その風はわたしのスカートを揺らして、わたしは咄嗟に手で押さえた。 そうして。ゆっくりと顔を上げると、少し先に阿部くんがわたしの前に立っていた。


ああ。わたしたちは―――。

この距離に、慣れていかなければならないんだ。


わかってる。それはとても辛くて、悲しいことなんだって。 でも、でも。だけど。 阿部くんが、わたしに優しく笑ってくれていたから。 わたしはきっとたぶん、かなりゆっくりだろうけど、慣れていけるんだろうと思った。 寂しいけれど。阿部くんと離れてしまうのはほんとうに寂しいけれど。 かなしみじゃなく、いつかちゃんと思い出になるということ。それをわたしはわかってしまった。 その日わたしと阿部くんは、ほんとうになんにも言葉を交わさなかった。 それでも、わたしたちは通じ合っていた。 泣きながら笑ったわたしの涙を拭ってくれた手とか、 そのままわたしの手を取って綺麗な世界を歩いたときとか、わたしたちは繋がっていた。 わたしはかなり泣いていたから、ひどくぐしゃぐしゃな顔をしていたけれど、 きっと他の誰かから見たら、わたしたちは美しいものだったと思う。 空気すらぴんく色に染め上げたようなこの桜は、まだまだ散りそうになかった。 わたしは、あのときわたしが見たものを、しっかりと覚えている。 そしてこう思う。 きっと神様は、誰かと分かれるときに決して意地悪をしないんだということを。 必ずまた笑えるようになるんだよと、優しく教えてくれるのだということを。







素顔
(昨日よりも今日よりも、きっと新しい笑顔でいる)







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コスモナウトのすばるさんよりいただきました。
こんなわたしを大好きだって言ってくれる、とってもとってもかわいらしくてやさしい子!
いつもうれしいことばをたくさんありがとう!言いきれないくらい感謝してます。
こんなに素敵なお話もありがとうございました。これからもよろしくおねがいします!
(千絵)