背中に敷かれたフローリングの床が固くて冷たい。 逃がすものかと強く掴まれた手首は少しだけ痛くて、熱い。 押し倒された拍子に反射的にぎゅっと瞑ってしまった目を開けると、 総悟くんの透き通るように繊細な茶色の髪が視界の中心に飛び込んできた。 どこか苦しそうに顔を下げているせいで、彼の表情は見えない。 総悟くんだけに集中していた視野を広げると彼の周りを縁取る天井が まるで何か悪事を見るかのように、穢れのない白で私達を責めていた。 私はゆっくりと時間を切り取るような瞬きをしながら、 ぼんやりする頭で押し倒されたことを認識する。 総悟くんが音もなく、私を見た。真っ直ぐに何かを伝えたがっている瞳に見られると なんだか居心地が悪くて、私はどんどん熱くなって、 フローリングの無慈悲で冷たい温度の方が心地よくなっていることに気付いた。 どくどくと忙しくなる心臓と短い間隔で行われる呼吸に、自分が熱があることを思い出す。 思い出した途端に体中がだるくなって、掴まれた手首がいっそう熱を持ったように感じた。





「総悟くん」





そっと唇を重ねられそうになって、私は寸前で彼の名前を呟いた。 すると彼はぴたりと止まり、ゆるやかな動作で顔を離していく。呼吸だけが触れた。 総悟くんは年齢にそぐわない、ひどく大人な表情をして私を見下ろしている。 私は熱に侵された頭の中をぐるりぐるりと掻き混ぜられるような不思議な感覚で、 此処を現実とも夢ともみなせないようだったけれど、頭の芯は床と同じく冷えて冷静だった。 熱く冷たい矛盾が、ぐるり、ぐるり。回り回った冷静が信号を送り、声を生んだ。





「わたし、熱があるの」
「…知ってやす」
「うつっちゃう」





総悟くんは笑って、「そりゃ光栄だ」と言った。 降りてきた顔が鎖骨に口付けて生温かい舌を滑らせる。 総悟くんは逃げる体力も生まれない私の右手を床に押し付けて、 それが鎖であるかのように強く掴んだままだった。 血管が塞がれて、指先まで血液が届いていないんじゃないかしら。と私は自分の内側で囁く。 首筋を滑った舌が耳の裏に。私は卑猥な熱を含んだ息を吐いた。 どんどん、溶かされるように熱くなっていく自分に冷静さを引き戻すように、 空いている左手でいつも胸元にある十字架の形をした金属を握った。 総悟くんの右手が私のTシャツをとても自然な流れで捲り上げ、 人間の温度を持った手が腹を撫でたとき、私は今度は冷静だらけの息を吐く。 ちょうどその時総悟くんが、私が肌身離さず身につけているアクセサリーを 強く握っていることに気付いて動きを止めた。天井が見てる。真っ白が私に訴える。 (裏切るの?) 手のひらの中の金属は冷徹な表情で不断な私を説き伏せる。





「ねえ、神様を信じてる?」





総悟くんは私を見下ろして、沈黙する。渇いた喉は更に渇いて咳が零れそうになった。 音がなくなって、私はつい先日まで壁にかけてあった時計のことことを思い出す。 あの人がいなくなってから、独りの部屋に追い立てるように部屋の隅から積もっていく 止むことのない規則正しいリズムが怖くてたまらなくなって、 天井近くの高い場所にかけてあった時計を椅子と台を積み上げて手を伸ばし、外した。 不安定な足場の上で私はこの時計をあの人がひょいと壁にかけてくれた姿を思い出してしまって、 バランスを崩しそうになる。は小さいな、と笑うあの人の声が聞こえた気がして、 うっかりするりと手の中から落としてしまった時計は床でうるさく音を立てた。 その衝撃で飛び出した電池は時計の機能を止め、 あんなに追い詰めるようになっていた音は一瞬で止んだものだから、 私はそこでも終わりはあっけなくやってくるものなのだと思い知った。 これ以上、思い知らせてくれなくたっていいのに。 リズムを刻む時計がないから、沈黙がどれほど続いたのか分からなかった。 私は総悟くんに見下ろされながら、握り締めた十字架から記憶が流れ込んでくるのを感じていた。 (ねえ、そんな理由で時計を外した私を、あなたは馬鹿だなあとわらうでしょう?) 呆れたようにやさしく笑う姿は一瞬で私の瞬きの瞬間に潜り込むのに、 それを現実に見ることは、もう二度とないのね。 そうしてあの人の代わりのように、総悟くんが笑った。





「宗教の勧誘ですかィ?」
「…そんな言い方、」
さんはいつも唐突だ」





総悟くんの手が背中と床の間に入ってきて、私は自然と背中を浮かせる。 私の手首をずっと強く掴んでいた方の手は頭の後ろに入ってきて、そのままぐいっと体を起こされる。 熱がある頭は急に体を起こされたことによって血が下ってくらりとした。 重い頭が後ろに傾きそうになるのを、総悟くんが支える。 首の後ろにある彼の手は冷たくて気持ちが良かった。 「熱いな」と呟かれた声に、「熱があるから」と弱く返す。 私たちは向き合う形で座っていて、なんだろうこの状況は、と思った。 まだ十字架を握ったままだった私の手に、総悟くんの手が被さってくる。 私はその手を目で追って、ぼんやりと視界に収める。総悟くんもまた、同じように手を見ていた。





「俺ァ、神なんか信じちゃいねェ」

被さった手に、少し乱暴にも感じるほどの強い力が込められた。







「あの人の信仰心を、あんたが継ぐ必要はどこにもないでしょう」







私の熱を吸い込んだせいで総悟くんの手も熱くなっている。 私の手の中にある十字架は、あの人が私に残した唯一の物だから、私はこれをきっと一生手放せない。 総悟くんの手が私の手を十字架から離そうとしている。 ねえ総悟くん、私はこれを、手放せないの。それから、だれにも触れさせちゃいけないの。 私は強く握っている手を強い力で解かれそうになるのに嫌々するように、 少しだけゆっくりと身を引くと、総悟くんはとても簡単に手を離した。 私が心のどこかでほっとした瞬間に彼の両手は私の首の後ろに回り、そのまま彼は薄く笑う。






「神様は何も救わない。救えないんでさァ」







ほんの一瞬の事だ。 首に下げていた十字架を繋ぐ鎖は総悟くんの両手に握られて強い力で左右に引っ張られ、 気づいた時には細かい鎖の粒がやけに繊細な音を立てて床に転がっていた。 何が起こったのかわからなくて、私は床の上で遊ぶ数個の鎖の粒を目で追う。 ほぼ意志を持たずに涙が零れた。次から次から込み上げてきては目から流れる。 全身から抜けていく力のせいで、強く握っていた十字架が床に落ちてからりと音を立てた。 総悟くんの顔が近付いて、ゆっくりと唇が触れそうになる。 頭がくらくらして、少しの間目を閉じてしまった。唇が触れた。総悟くんだ、と言う事は知っていた。 けれど目の奥に張り付いたままの彼の笑顔をまだ剥がせないままの私は、まだ彼を想って涙を流す。 自由になった唇は無意識に、あの人の名前を紡いでいた。総悟くんはこれ以上、私に触れなかった。










様の術館




これを彼が私の首にかけてくれたその日も私は高熱にうなされて、 本当に本当に大袈裟だけれど死んでしまうかと思ったくらいで、 弱くなって泣いた私に、彼はそっと笑っていつも下げていた十字架をくれた。 は神様が守ってくれるから。と言った彼に、私は泣きながら神様なんていないよと言ってしまった。 彼は笑っていた。神様はいるよ。












(ねえごめんね、 壊れちゃったよ)