「夕立が来るね」







窓を開けて少し空を見上げ、すうっと空気を吸い込んださんが言った。 カーテンを開けた窓から入ってくる光は太陽のもので、 雨が降る気配など少しも無かったが、この人が言うならそうなんだろうと思う。 俺は黙々とインゲンマメの筋取りを続けながら ベランダから流れてくる風を鼻から吸い込んでみたが、 ボウルに盛られたインゲンマメの匂いしかしなかった。 彼女の嗅覚は人よりもずっと敏感で、確実だ。 今も、人にはわからないくらい微かに生まれた雨の匂いを嗅ぎ取ったのだろう。 いつだったか土方さんが自慢げにこいつの嗅覚はすげェんだと言っていたのが 頭をチラついた。が、消した(うっとうしいから)。 さんは洗濯物を気にしていたようだったけど、 まだ平気かなと独り言を言って振り返り、にこりと笑って俺の向かい側に座った。






「あと半分くらいだね」
「洗濯物はいいんですかィ?」
「うーん、これが終わったら取り込むよ」






言いながらさんが皿の方のインゲンマメに手を伸ばしたから、
「そっちは終わった方ですぜ」と教えてやると、
あら。と無邪気に笑って筋を取っていない方のボウルの中のマメを一つ取った。



小さなアパートの二階の角にある部屋がさんの住んでいる此処で、 俺は暇が出来るたび此処へやってくる。 さんは夕方には大抵帰ってくるので、 此処に来るといつも夕飯の用意を手伝って、一緒に食べる。 さんの作る飯は美味いから、それを楽しみにしているのもあるけれど、 俺はそれよりもこうして夕飯の用意を手伝う時間の方が好きだった。 普段こんなことはしないし、面倒だからしたいとも思わない。 だけどこの小さな部屋で過ごす夕方の時間は特別だ。 シンプルにまとまった家具や、柔らかく吹いてくる風、穏やかに揺れる洗濯物、 包丁がまな板を叩く音、外から聞こえる子供の声。どうとも言えないこの平和な空間は、 今まで恵まれなかったものを一気に与えてくれる気がするからか。 今みたいにこうして、小さなガラスのテーブルを挟んで向かいあい、 床にぺたりと座りながらインゲンマメの筋取りなんかをしているのも可笑しくなるくらいに平和だ。





最初にさんに会ったのは、土方さんがやけに夕飯をどこかで済ませてくる日が続くので 不思議に思って(究極に暇だったので)跡をつけたときだった。 何かと思えばこんなアパートに来るので、そこで隠れるのをやめて女ですかィ?と尋ねたら うざいくらいに驚かれ、帰れと怒鳴られた。 そこでやいやい土方さんが怒鳴るから、部屋からさんが顔を出したのだ。 かわいいひとだ、と言うのが第一印象だった。 何してるの十四郎、と言われた土方さんは見たことのない罰の悪いような顔をして、 今日は帰ると言ったから、俺は勝手にさんに挨拶をした。 土方さんはどうしても俺がさんと関わることが嫌だったのか、 さんといるときの自分を見られたくなかったのか、 無理矢理俺をつれて帰ろうとしたが、彼女が笑って俺たち二人を呼び止めた。 ごはんできてるよ、と。土方さんは空腹とさんの笑顔に負け、 小さく舌打ちをして俺をさんの部屋に入れた。 ひとりは寂しいから、いつでも来てねと言った彼女の言葉通り、 俺は此処に頻繁に訪れるようになったのだ。







「これ、取らなきゃいけねェんですかィ?」
「だめよう、食べるときに気になるじゃない」
「そーですかねェ」
「飽きてきちゃった?」
「いやァ、頑張るっす」






ふふ、とさんが笑って、皿の方にマメを乗せる。
ボウルのインゲンマメはどんどん皿の方に移って、ぱきっ、とへたを折る音も調子よく響き続ける。
ふわっと強い風が吹いて、網戸を通って細かくなり、部屋に満ちた。
空気を嗅いださんが「あ」と声を漏らした。






「十四郎が来るかも」





手を止めてくんくんと空気を嗅いでいるさんは犬みたいだった。
土方さんが来ることで彼女は少し嬉しそうだ。






「どんな匂いがするんですかィ」
「ん? 煙草かな」
「ああ、やっぱり」
「あと」





すうっとさんは鼻で息を吸い込んで、口から吐いた。






「血」






深い深呼吸のあとで吐き出された単語はどんな気持ちで吐かれたのかわからないが、 目を伏せて再びぱきっと音を立てて筋取りを始めたさんは切ない顔をして笑っていた。 俺は一瞬手を止めたが、彼女の奥底の感情が滲んだ笑顔を見てすぐにまた音を立てる。ぱきっ。






「俺にはマヨネーズのにおいしか嗅ぎ取れやせんがね」



あはは、とさんがいつものように笑ったのを見て、俺は静かに安心した。




「マヨネーズのにおいもするよ」
「「も」って言うかそのにおいしかしねェや」






いつも通りの穏やかなやり取りの途中で、インターホンが鳴った。 さんが立ち上がってはいはーいと玄関に向かっていく。 鍵を開けてドアを開けたころ、ばたばたっと大粒の雨が窓を叩いてすぐ、連なって雨を呼ぶ。 夕立だ。さんの予報が当たったのだ。 「せんたくもの!」と玄関先で叫ぶ声は慌ただしくこっちに戻ってきて、ベランダに出て洗濯物を取り込む。 あとから来た土方さんが俺を見て笑った。






「また地味なことやらされてんな総悟」
「うるせェ土方」
「いい度胸だ表へ出ろ」
「ちょっと十四郎!手伝って!」






両腕いっぱいに洗濯物を抱えたさんに言われて、土方さんがその洗濯物を受け取る。 それからさんのもののなかに土方さんのものも少し混じった洗濯物を床に放って、 その中からタオルを一枚取り出して、ベランダで横殴りの雨に濡れたさんの髪を拭いてやっていた。 さんが乱暴に頭を拭く土方さんにいたいよと笑っている。 俺はすっかり見慣れた二人の様子を見ながら、 相変わらず筋を取る作業を続けて土方さんの周りの空気を嗅いでみた。 けれど、いつの間にかボウルから皿にいっぱいになったテーブルの上のインゲンマメの匂いと、 ベランダから流れてくる雨の匂いしかわからない。











(長けた嗅覚が彼女に何を思わせているのかなんて、俺が知ることじゃないのだろう)