「また連れてきちゃったらしいですね」





りん、と鳴った。それは猫の首輪についた鈴のような、俺の中だけに聞こえる小さな音。 彼女の声だけが揺らすことのできる、俺の中に潜んだ、誰にも見せない部分で鳴る音。 声がした方を振り向くと、さんは相変わらずの凛とした、 それでいて柔らかな空気を保ったまま、にこりと笑って立っていた。 俺はさんの言った「連れてきちゃった」黒猫を撫でながら畳の上に寝転んでいたが、むくりと起きて胡坐を掻く。 そして隣に座ってくれと目で合図。彼女はそれを静かに受け取ってくれて、静かな動作で俺の隣に正座した。
先ほどまで寝ていた黒猫も、俺が撫でるのを止めたからか、ゆらりと起き上がって小さく鳴いた。 俺がその猫を片手でひょいっと抱きあげ足の間に収めると、さんが小さく笑う。





「ずいぶんと懐いているんですねぇ」
「懐かれすぎてもいけねェや」
「どうしてですか?」
「ほかのやつらが嫉妬するから」





ああ、と思い出したかのような声で言い、彼女は静かにくすくすと笑った。 ああなんて柔らかくて綺麗な笑い方をする人だろうといつも思う。 だけどそれはひどく儚いように思えて、俺は時々怖くなるのだ。いつこの笑顔を、失うのだろうかと。 ほかのやつら、というのはこれまでに俺についてきた猫のことだ。 知らぬ間に屯所の至る所に猫がうろつくようになって、しかもどれも俺についてきたもので。


近藤さんは特にここにいても害はないのだからいいだろうと言っているのだが、 例のあの鬼の副長こと土方さんはここは猫屋敷じゃねェんだと反対している(なんでィ猫屋敷って) 多分あの人は猫が苦手なだけなんだろう。 特に黒猫は気味が悪いといって俺の知らないところで隊士に捨てさせようとしている(残念ながら全部知ってますぜ) ちらりと横目でうかがったさんは尊いものを見るような目で 俺の足の中にくるりと丸まった黒猫を見ていて、この上なく優しい表情をしていた。





「沖田さんは優しいんですね」
「…優しい?」
「動物は優しいひとにしか寄ってきませんよ。 沖田さんはきっと、なにかを惹きつけるあたたかいオーラを持ってる」





穏やかで、どこかなだめるような声で彼女は言う。 俺は彼女にやっていた視線をふ、と黒猫に落として、 ノラ猫のくせに妙に綺麗で柔らかい毛を何度も往復して撫でた。 彼女が急に眩しく見えた。 隣に在るさんという存在は、俺なんかにはもったいなさすぎるくらい綺麗なものだということに気づく。 「世界」をあまりしらない俺は今まで見てきたものだけを「世界」と呼んでいるけれど、 さんは俺の創り上げた小さな小さな世界の中でもっとも尊く穢れのない存在だ。 屍を踏んで影を縫って生きてきた俺にはとても手の届かない、絶対に触れてはいけない場所に在る人だった。 俺はそれに気づくのが遅すぎたのだ。





「優しくなんかありませんぜ」
「……どうしてそうお思いに?」
「動物の中でも猫が寄ってくるんでさァ。それも、黒猫が」
さんはゆるりと首を傾ぐ。言っている意味がわからないというように。
「土方さんの言うとおり、猫は不気味でしかたねェや。
黒猫なんかは特に、 なにも知らないくせにすべてを知っているような黄色い瞳を向けてくる」





俺は足の間の黒猫ののどを撫でる。ゴロゴロと嬉しそうに鳴った。
さんが何かを言いかけたような気がして、だけど俺はなぜかその言葉を聞くのがためらわれて、
それを聞く前に先に言葉を紡いでしまえと彼女の名前をつぶやく。





さん」
相変わらず視線はまだ彼女へと向けられないままだ。
「、はい」
「どうして俺に猫がこんなにも寄ってくるのか、わかりますかィ?」





さんは少し戸惑った。目を合わさなくてもわかる。 彼女はいつも柔らかくてあたたかいオーラに覆われている。 だからこそ、ちょっとなにかがあるだけで水の上に滴を一滴落としたみたいにすぐに波紋を作るのだ。 俺を纏うものはきっと硬くて弾力のある膜のようのものだろう。 なにかが揺らしてもすぐに弾いて、何事もなかったかのように固まるのだ。 俺は彼女の答えを聞く前に答えを言ってしまう。 さんを纏う真っ白で少しも汚れていないものの上に、真っ黒の墨を落とすように。





「俺が一番、濃い血の臭いがするからでさァ」





たくさんの者を斬った血の染み込んだこの手。 何度も何度も返り血を浴びては頭から爪先まで真っ赤に染まった。 他人の血の臭いと、自分の中に流れる人斬りの血が、たくさんの猫達を引き寄せる。 黒猫は特にそれに敏感なんだきっと。だから土方さんは特に黒猫が気味が悪いと嫌がるんだ。 土方さんも少なからず感じているからだ。まるで自分の中を流れる醜い血を見透かされているような感覚を。 猫にそんな恐怖を抱くことなど、馬鹿馬鹿しくて情けないことのように思えるけれど。 さんはぐ、と息を詰まらせたように黙った。 ああ、絶対に触れてはいけない人に要らぬことを説いてしまったという後悔がじわじわと滲んだけど、 そんなものはすぐにごくりと喉だけで飲み込んだ。


離れていくならそれまでだ、と思う。こんな醜い血の流れた人間にそんな笑顔を向けてくれる必要はない。 誰かを殺めてしまった人間は、その者同士で集まっていけばいいのだから。綺麗な人間を血に染めるのはあまりに残酷だ。 何もいえないのならばさっさと立ち去ってくれたらいい、と冷酷にも思いながら猫を撫でていた、 その手に急にあたたかい温度が重なった。細い指や白い肌からそれがさんの手だとすぐに理解する。 さんの手は俺の手をそのままぎゅっと強く握った。





「沖田さん」





名前を呼ばれてずっと猫ばかりをみて俯いていた顔を上げると、瞬間、あたたかいものが唇に触れた。 それがさんの唇だと理解するのには全然時間はかからなくて、ただ突然のことに息が止まるかと思った。 さんの唇は柔らかくてあたたかい。キスなんてものをするのはひどく久しぶりだったけれど、 今まで唇を重ね合わせるだけのこの行為がこんなにも気持ちの良いことだと思ったことはなかった。 やっぱり相手が彼女だからだろうか。ゆっくりと唇が離れて生暖かい風が俺と彼女の間を吹き抜ける。





「沖田さんって、あったかいですね」





ぎゅっとぎゅっと握られた手はまだ握られたままで、 先ほどまで自分のものと重なっていたその唇がそんなことを細く紡いだ。 俺はというとさっきのあのさんの柔らかい唇の感触をただただ思い出していて、 俺の足の間で丸くなる黒猫はというとなにも見ていなかったと言うように知らん顔で目を閉じている。 ふと目があったそのさんの瞳はやっぱり澄んでいて、 キスをしたのは俺じゃないのに俺がいけないことをしてしまったような気分になった。 自分の中でなにかが弾ける音が聞こえた。結局俺は彼女を汚すことしかできないのだ。 だったら綺麗なことしか知らない、穢れのないシェルターの中で微笑みを浮かべている彼女の穢れになってしまえば良い。




ぐいっと彼女の腕を引っ張って、半ば無理やりに口付ける。 今度は俺から、さっきの触れるだけのものじゃなくて、もっと深くを求めるように。 薄く開いた唇を舌で割り、歯列をなぞって舌を絡める。 角度を変えては絡めての繰り返しで、肩を引き寄せ彼女を抱き締める。 すると黒猫は足音も立てずに静かに逃げて行って、 それにもお構いなしにもうただ深く絡まることだけを求めるキスを続けた。 黒い髪を何度も掻き混ぜながら、さんも血の臭いに惹かれてきたんじゃないだろうかと考える。 まさか、とは思うけれど。 拭っても拭いきれないくらいに染み付いた血を纏う俺をなだめるように されるがままのさんが、あまりに綺麗であたたかくて柔らかくて、俺はどうしてか泣いてしまいたくなった。










甘い心臓を食べる魚
(俺の痛みをあんたが汲む必要なんかまったくないというのに)