社会人になりたてのあたしは、失敗にも怒られることにも慣れていなくて、 だけど当然それを避けては働いていけなくて、今日初めて失敗して怒られてしまった。 悔しくて情けなくて、もう仕事に行きたくなくなって、帰ってきてからすぐ電気も点けずに ずっと部屋の隅に置かれたベッドのまた隅にクッションを抱え込んで膝を折り曲げて落ち込んでいる。 ああもう、大人になんかなりたくなかった。大人がこんなにつまらないことだらけとは。 これからずっと社会で働いていかなきゃならないなんてもういやだ。 意気地無しなあたしはどんどん暗いダメ人間の思考に進んでいく。あーあーあー、人間失格。バイ太宰治。



「ただいまー」




ガチャリとドアが開いて、いつもの声。暗い部屋にぱちっと電気が点いて、 荷物を置いた坂田はベッドの隅でちいさく座っているあたしを見つけた。 「うおあっ」と怖がりの情けない驚きの声を聞いたけど、あたしは何の反応も示さないで動きもしなかった。 いたなら電気ぐらい点けろよ、とどっくんどっくん鳴っている心臓を抑えながら言う坂田が見なくても想像できて、 あたしはこのチキンボーイが、と心の中で呟いてやった。 坂田はいつものようにちゃんと手洗いうがいをして、あたしはその水音を聞きながら、 今はまったくヤツと話をする気にはなれないなと思っていた。 バイトバイトバイトの坂田にはわかりっこないのよ。 バンドまでやっちゃってさ、バイトとバンドってしゃれかお前。 バイトという字を一文字変えてバーンード。っておちゃめさんかお前。 もう、ばーかばーか、あほの坂田!


手洗いうがいを済ませたよい子の坂田は床に座って冷蔵庫から出してきたものを飲んでいる。
確実にいちご牛乳だ。もう見なくてもわかる。ワンパターン大王め。




「なんかあった?」




バンドでバイトでいちご牛乳で、幸せ人間あほの坂田はいつものゆるい声でそう訪ねてきた。 あたしが何も答えないでいると、坂田は狭い部屋でインテリアみたいに置いてあるギターを取って弾き始める。 音楽が大好きなあたしに、坂田は時々あたしの好きな歌やライブで演奏する曲なんかを弾いてくれる。 あたしはそれが大好きだったけれど、今はまったくそんな気分ではない。 てゆうか、あたしは今見ての通りどん底に落ち込んでいるんですけど。 じゃんじゃかと弦をはじく音がだんだん耳障りになってきて、 何の歌だか何語だかもよくわからないような歌を歌い始めたので、あたしはとうとうイライラして 胸に抱えていたクッションを坂田に向かって投げつけた。




「うるっせー!!」
「ぶっ」




投げつけたクッションは坂田の顔面にヒットして、坂田の間抜けな声と同時にギターと歌は鳴り止んだ。
あたしはまたふいっと顔を背けて、ベッドの上で壁を向いて体育座りというさっきまでの体勢に戻る。




「お お前俺がせっかく慰めようとしてんのを…」




膝の間に顔を埋めて、あとからあとから溢れんばかりの、 仕事とか坂田とかなにより自分への苛立ちが苦しい呼吸の中で涙になりそうなのをこらえていた。 坂田は情緒不安定か、などと呟いている呑気者で、本当に腹が立つったらない。 わけのわからない歌で慰みになるわけないでしょう、ばかばかばかばか!馬鹿!ガキ!あほ! ふう、と坂田が息を吐いて頭を掻き、ギターを置いたのが分かった。 それからよっこらせと言って立ち上がり、ぼすっとベッドに座る。 隅っこで壁を向いて座るあたしの隣。あたしは気付いたら半泣きで、鼻を啜ったら坂田の匂いがした。




「おーい、ちゃん」
「………」

「………」
「なあ」
「………」
「おいこら
「なによもう!っ、」




怒って振り向いたら、ちゅっと一瞬のキスをされた。
びっくりして目を開いた隙に、もう一度された。
坂田は笑っていた。
隙を突かれたのがなんだか悔しくて、あたしは怒って坂田の肩を押して引き離した。




「なに、すんのよ」
「お前の好きなアイス買ってきたんだった」




坂田はそう言ってベッドから下り、 いつも持っているカバンと一緒に床に置いてあったコンビニの袋を取って またベッドに上ってあたしの隣に座った。 そんなアイスくらいじゃ元気になんかなれないんだから、と思いながら コンビニの袋の中を探る坂田を見ていた。すると彼の動きがぴたりと止まる。





「やべ、溶けてる」




冷凍庫に入れておかなかったのなら当然だ。あたしはばかばかしくなって、ふっと吹き出す。
「ばか」と坂田の頭を軽く叩いて、笑いながら怒った。












歪なコードを泳ぐ
( 世界で一番心地いい空間 )