下駄箱で靴を履いて外に出た途端、容赦なく頬を刺す冷たい空気に肩をすくめる。 うー、と唸ってマフラーに顔をうずめると、隣で総悟が同じような仕草で寒ィ、と低く呟いた。 当然のように総悟は隣で白い呼吸をしている。いつものように、いつもの帰り道で。 学校から駅までは歩いて15分くらいと、結構遠い。田舎の小さな駅だ。電車は一時間に2本。 私はその道を総悟と一緒に歩いて行くのがとても好きだ。 冷たい空気に冷え切った両手を、恋人同士らしく繋いだりもしないでポケットにしまいこんで、 だけど時折肩がぶつかり合うくらいの近い距離で歩くのが、とても好きだ。




「銀ちゃんに報告した?」
「あー、まァな」
「なんて言ってた?」
「安心したわ、つってた」




高校三年生の私達は、もうすっかり受験も終えて、私と総悟は進学先も決まって、残るは本当に卒業式を待つのみとなっていた。 学校ももうべつに行かなくてもいいのだけれど、不思議なものでもう卒業式で終わってしまうとなるとこわいくらい名残惜しくて しがみつくように「高校生」を実感したくなり、私達はこうして進路が決まった今でも学校に通う。 寒い田舎道を歩いて、寒くて小さな駅で一時間に二本の電車を待って。 「そっか、よかったねえ」 銀ちゃんも心配だったんだよ、総悟のこと。と斜め上に視線をやって話すと、 総悟は俺ァやるときゃやる男だからと斜め下の私に視線をくれて言った。




「うっわ、どや顔」
「うるせェ」




総悟がポケットに手を突っこんだまま、肘で私を小突く。総悟の左隣りは私の定位置。心地いい場所。 でももうすぐ、私はこの安心感を失ってしまう。いや、失ってしまうわけじゃない。 遠く遠く離れて行ってしまうだけなのだけれど。 総悟は3月に卒業式を終えたら間もなく東京に行ってしまう。 東京で一人暮らしをして、東京の大学に通うのだ。 総悟からその話を聞いたとき、私はそれを止めなかった。 だって総悟は少しも悪びれなく、言いづらそうにもしないでいつもの顔で普通の顔で言うから。 私も普通の顔でそれに納得した。そっかあ。って。総悟の人生なんだから、総悟がしたいように生きたらいい。 妙に冷静な私が私の中でぐんと背伸びをした。ただあのとき、私は総悟の顔を見れなかった。 なにかかが睫毛に乗っかったのを感じていつの間にか伏せてしまっていた視線を上げると、 小さな雪の粒が降り始めていたことに気が付いた。「雪…」 私の言葉に総悟も空を見上げて「うわ、ばっかじゃねェの」と悪態をついた。 総悟は寒いのが大嫌いだった。だから雪が降ったり積もったりすると必ず不機嫌そうに白い息を吐いて、鼻を赤くしてた。




「…東京も雪降るのかなあ」
「あたりめーだろ。東京をなんだと思ってんでィ」




東京かあ、とはらはら降る雪をぼんやり見つめながら呟くと、総悟が私を見て、私も自然と総悟を見た。 見つめ合う空間を縫って、冷えて少し赤くなった指先が伸びてきたから反射的にきゅっと目を瞑る。 すると優しい指先が私の前髪についた雪を払った。 目を開いて総悟を見たら、マフラーに半分隠されている顔が寂しそうな色を見せている気がして、 私は喉の奥が狭く苦しくなるのを感じた。 なんだか居心地が悪くなってしまったのを隠すように視線をそらして足を早める。




「でも新幹線ですぐだよね、東京なんて」
「お前新幹線乗れんの」
「乗れるわ!すぐそうやって馬鹿にするんだから」




ぱしっと総悟の肩を叩いて怒りながら笑うと、総悟はそれァ驚いた、とわざとらしく笑う。 気付けばもう駅についていて、かじかんだ指で鞄の中から定期を出して改札を通す。 駅には怖いくらい誰もいなかった。しんしんと大粒になりはじめた雪が降り続いているだけ。 ベンチに座って電車を待つ。この様子だともう先程電車は行ってしまったらしい。 あと何分後に来るだろう、と思ってポケットの中の携帯に手を伸ばしかけたけど、やめた。 時計を見るのはなんだか嫌だった。どれだけでもいいや。時間を今は考えたくない。 私は総悟といる時間に携帯を開くことは滅多になかった。総悟との時間がそれだけ大事だから。 こんな田舎じゃすっかり見慣れた雪だけど、今日はどうしてか特別憎らしかった。 音を吸い込んでしまう雪は私達が言葉を交わさない限り沈黙を重く積もらせるだけで、切なさばかりを膨張させた。 言ってはいけないことまで言ってしまいそうになるから、 私はマフラーの中にしっかり顔を半分埋めてそれを押し戻す。 総悟はずっ、と鼻をすすって不機嫌そうな声で寒ィと言う。 冬には聞き飽きてしまうほど聞く総悟の不機嫌な声での「寒ィ」に、私はふっ、と笑った。




「なんでィ」
「んーん。なんでも」
「へんなやつ」
「…………ねー総悟」
「ん?」
「……寒ィ」
「…まねすんな」
「ふふっ、総悟の冬の口癖だね」
「寒ィんだからしょうがねーだろィ」
「…………」
「…………」
「……冷たっ」
の方が冷てェや」




私のスカートの上に、手のひらの方を上にして置かれた大きな手に、私は無言で自分の手を乗っける。 学校帰りは誰にみられるかわかんないから、それを嫌がった私も総悟も手を繋ぎたがることはなかった。 だからこうしてこの駅で、制服で手を繋ぐのはもしかして初めてかもしれなかった。 総悟と付き合って一年ちょっと。総悟が隣にいるのはもう当たり前のことだった。 それが当たり前じゃなくなる時がくる。もうすぐ。 雪はやむどころか順調に降って、ところどころに白く薄く積もり始めていた。 テレビでしか見たことのない赤くて綺麗に光る東京タワーが頭に浮かんだ。 ここにはない、高いビルの立ち並ぶ中でさらに高くそびえ立つ東京タワーの見える場所で、 総悟はこれから日常を紡いでいくらしい。それはビルなんかいっこも建っちゃいないここで生きてきて、 これからも生きていく私にとって、想像するのが難しいことだった。




「東京タワー……」
「………」
「………」
「……東京タワーがなんでィ」
「や、見えるね、毎日」
「ああ。東京だからなァ」
「…遠いね、そう…っ…」




総悟。そう呼ぶ声が途中で途切れてしまった。 涙で詰まって出なくなった声を飲み込んで、私は総悟から顔を背けて斜め上を向いた。 泣いているのがばれないように、鼻をすすりながら涙を引っ込める。 だけど上を向いてみても収まりきらない涙がころりと落ちる。 泣くつもりでもなかったし、泣くような話もしてない、泣けるような雰囲気でもなかったというのに。 隣で総悟が優しく笑う。




「さっき新幹線ですぐって言ったじゃねーか」




それに笑って返事をしようとするのに、きゅっと結んだ唇を解くことができない。 ぽろぽろと頬を伝う涙が追いかけるようにこぼれ落ちる。 不規則に吐き出される白い息が空気の中に広がっては溶けていく。 滲む視界の端々で、雪が白くあたりを覆っていた。



痛いくらいに強く私の手を握った総悟が、寒ィな、と鼻をすすりながら呟いた。











 線 路 
( そのとき総悟も少し泣いてたこと、私しってたんだよ。 )