橙色の暖かい光が持て余すほどに広い部屋にぽとりぽとりと落とされて満ちている。 恐ろしいほどに大きく足元まで夜景を切り取ったガラス張りの窓のそばに立つと、 普段経験もしないような高さから見下ろす街にふわりと落ちてしまうように感じて、 高所があまり得意ではない土方にほんの少しの恐怖を教えた。 それでもそんな小さな恐怖よりも強く、見渡す限りのずっと遠くまで続く、 夜の地上にばら撒かれた人口の星屑に表現できない程の切なさを感じる。 ビルやマンションの窓一つ一つから眩しく街に散らばる光はそれぞれ寄り集まって窮屈そうに呼吸をしている。 自分はいつも、あの光のうちの一つの中で一生懸命生を紡いでいるのかと思うとなぜだか泣きたくなった。 忙しなく途切れることを知らずに続いて行く車のライトの行き先は、その車しか知らない。 ―――ああなんと寂しい世の中だろう。 バスルームから出てきたは真っ白のバスローブを纏って、金色に近い明るい色に染まった 肩下までのストレートの髪を濡らしたまま、洒落たカーペットの床に滴を垂らしながら土方の背中に駆け寄った。 パタパタとスリッパが無邪気な音を立てる。大きな背中に抱きつくと、の濡れた髪が土方の背中を冷やした。 土方は突然襲った冷たさに首をひねらせて背後にしがみつくものを見た。 自分の背中にぴったりと額をくっつけていたが顔を上げ、ぱっといつものように子供っぽく笑う。





「髪乾かさないと風邪引くぞ」
「引かないよ。引いたことないもん」
「……嘘つけ」
「うん嘘。でも平気。私ドライヤーって嫌いだから」





ドライヤー嫌いな事は風邪をひかない理由にはなってないだろ、と思うと はよく回るお喋りな口で「でもタオルでがしがし頭を拭かれるのは好き。犬になったみたいでいい気分になるの」 と楽しそうに笑いながら続けるから、土方は一つため息をついて腹に絡みつく腕を解いて踵を返す。 バスルームを覗くとの服やら下着やらが恥じらいの欠片もなく散乱していて、 とことん仕様が無い奴だなと呆れると共に、こんなにも子供のまま大人になっている彼女を土方はとても貴重な人間のように改めて感じた。 その中には知らずと見て見ぬふりはできないほどの愛しさが息衝いている。 バスタオルを取って出て、大きな窓にぴたりと両手を付けて夜景を眺めているの頭に乱暴にタオルをかぶせる。 がしがしと本当に濡れた犬を拭いてやるように自分の髪を拭いている土方に満足な気持ちになりながら、 は鳥肌の立つような高い場所から足元を見下ろした。彼女は高いところが大好きだった。 自分と言う一人の人間が、数え切れない程の人間たちが生活しているのをまったくの他人事で 見下ろすのは神になったようでとても気持ちがいいからだ。 けれどその逆を想像するとそれはまた不快だった。だから逆は考えないようにした。





「やっぱりすごいねぇ、スイートルーム。トシさんいつもこんなところに泊まってるの?」
「んなわけねーだろ。お前がスイートルームがいいって言ったんじゃねェか」
「本当に取ってくれるとは思わなかった。お金持ちなんだねトシさん」





髪を拭いていた手が止まるから、は不思議そうに土方を見上げた。 暖色のライトに縁取られた輪郭はとても悲しく見えて、抑揚のない声は金の使い方が分からないのだと呟いた。 世の中で金と言うものの存在は計り知れないほどに大きい。土方はだれもが欲しがるそれを持っていながら、 使い方がわからないから彼女の無邪気な要望に応える為に、このだだっ広い部屋を取るのに使ったらしい。 は自分の目に映った泣き出しそうで泣き出せない土方の肩に手を乗せて、 いっぱいいっぱいまで爪先立ちで背伸びをしてキスをする。彼女は土方を可哀想だとも哀れだとも思わなかった。 あまりに生き辛そうに、それでも生きている彼を見て、は昔水族館で見たクラゲを思い出した。 こんなにも世が生き辛いならば、水中で生きた方がうまく行くんじゃないかと。 土方はキスをした彼女の子供のような笑顔から憐みを汲み取ることが出来なくてほっとした。 大人になった子供はやはり脱衣所に散乱した衣服と同じく恥じらいの欠片もなく言う。
「セックスする?」
あんなにも濃厚で汚らしくも神聖でもあるような行為を覚えたての言葉を喜んで使うように軽く言うものだから、 土方は彼女の持つ恐ろしいほどの無垢を知る。くるくると自分を覗く丸い目は楽しい遊びを待っているかのようだ。 土方は首を横に振って近くにあったベッドの横の上質の椅子に座った。 は土方を目で追って、きょとんとした顔で立ち尽くす。





「しないの?」
「そういう気分じゃない」
「そういう気分じゃない? 男の人がそういう気分じゃない時なんてあるの?」





パタパタとスリッパを鳴らしては土方の座る椅子の隣のベッドに座った。ふかふかのベッドはの体重を乗せて軽く弾む。 土方はポケットに手を突っ込んでまだ新しい煙草の箱とライターを取り出して、慣れた手つきで一本を取り出し火をつけた。
「あるに決まってんだろ」
すうっと体に害しかもたらさない煙を肺いっぱいに吸い込んで、吐き出す。 テーブルの上の灰皿を引き寄せて灰を落としながら、心が不思議なくらい落ち着いて行くのを感じる。 は光を吸い込んでキラキラとした茶色の瞳を珍しいものを見るように瞬かせて、床から浮いた両足を交互に揺らした。





「そんな人は初めて。こんないい部屋取ってくれたんだから、好きにしていいのに」
「部屋は関係ねーよ。そうするためにここを取ったわけじゃねェ」
「だけどこんないい部屋取ってもらって、何もお返しできないのは嫌」
「返してくれなくたっていいよ」
「あたしが嫌なの。ねえ楽しい事しようよトシさん」
「お前がやりたいんだろ?」
「うん。かもね。 セックスは好き。人間は皆そうでしょ?」

皆とは限らねェだろ、とあまりに欲望に従順なに土方は笑いながら言った。

「じゃあトシさんは嫌い?」
「嫌いじゃねェけど」
「ほら。好きでしょ。嫌いの反対は好き。世の中はいつも二択なんだもん」





ちゅっと可愛らしい音を立てては土方の頬に唇を弾ませた。 そのままベッドを離れてどこかへ歩いて行く。土方はそれを別に目で追ったりはしなかった。 と土方がそういった関係を持ったのは一回きりだった。 何度も何度も会っているのに、土方はいつもに手を出そうとはしない。 彼は彼女を傍で見ているだけで満足だった。同時に、彼女の持つ全てを知りたかった。 彼女の傍にいることで、その自由で無邪気な生き様を見ていられるのは楽しかったし、 息苦しい生き方しか出来ない自分を連れ出してくれるようで救われた。 生きることをただふわふわと楽しんでいるように見えるは、 それでいてだれも触れることのできないような場所に大きな痛みを持っているような気がして、 土方はその全てに触れたかった。要するに、と言う人間が、土方には必要だった。 が自分がいつも背負っているリュックを持って戻ってきて、ぴょんっと軽やかに飛び跳ねてベッドに座る。 鞄の中を探りながら、普段よく見かける寂しそうな表情をして煙草を吸っている土方をちらりと見ると、 彼はから顔を背けて窓の外を見ていた。彼の寂しそうな姿はにとっていつも魅力的に映る。 人間の持つ哀しさを体現しているようで、それなのに普段はそれを脆い肩書なんてもので埋めて固めて 飄々と生きるふりをしているものだから、その人間らしさが彼女には愛しかった。 鞄の中を探っていた手が目当てのものにぶつかると、はそれを取り出してさらに鞄の中を探った。


「東京は汚ェな」


煙草を灰皿で揉み消して、ため息交じりに最後の煙を吐き出しながら独り言のように土方が呟く。 は鞄の中にライターを探る手を止めた。そのままリュックを床に放り投げて、 さっき取り出した潰れた煙草の箱から一本を取り出して銜えながら夜景の方を向いたままの土方の後ろ頭に答える。





「どうして?」
「空気も水も、人間も濁ってる」





田舎から上京してきた人間はみんな口を揃えて東京は汚れていると言った。東京の人間は冷たいとも言っていた。 生まれも育ちもここ東京の土方にはいつでもこの汚れた環境は当たり前で、冷たい人間が溢れているのも当たり前だったから、 こうして大人になるまでずっとこの環境を汚れているとは思わなかったし、周りの人間の冷たさにも気が付きすらしなかった。 けれども会社に入って働くようになってみれば、ここではない、ずっと遠い場所から上京してきた人間がたくさんいて 皆が皆故郷を恋しがるものだから、土方にはそれが羨ましかった。故郷に帰れば澄んだ空気と水があって、温かい人間がたくさんいて、 あくびが出るほどに平穏な毎日を送れるのだろうと思うと、それが一生手に入ることのない土方は悔しかった。 どれだけ望んでも自分の故郷はここなのだ。帰る場所はここにしかない。皆が汚れていると言う、ここしかない。


「東京はきれいだよ」


口の端に煙草を銜えたはテーブルを挟んだ向かい側の椅子に移動して足を組んで座り、 テーブル上の土方のライターに手を伸ばして煙草に火をつけようとする。 土方はようやくを見て、カチッカチッとライターを捻って火をつけているに一時見惚れた。 彼女は今、無邪気な子供の影をすっかり失くして大人の女の顔をしている。 のこういう変化に、土方は時々彼女がいくつもの人格を持っているのではないかと疑う事がある。 それくらい、彼女は何の前触れもなくころころと色んな表情を見せるのだ。 そのうちのどれが本当なのか。そう訊いたら彼女はきっとまたあの子供のように無邪気な笑顔でどれも本当の私だと答えるのだろう。 は役目を果たしたライターをテーブルの上に放って、美味そうに煙草を吸った。



「あたしは田舎で生まれて田舎で育ったけど、東京はきれい。こんなにキラキラした街見たことがないわ」



が田舎で生まれ育ったことなど、土方は知らなかった。 彼女はめったに自分の話をしない。どこで生まれ育ったのか、とてもとても興味があったけれど、 それを訊けば彼女は必ず、さあ?と首を傾げて何も喋らなくなるだろうと言う事を知っていたから、 土方は黙ったままの唇から細く吐き出された煙がぼんやりと空気に溶けて行くのを見守った。





「そんな事言うやつは初めてだ」
「トシさんはどうして東京が汚いって言うの?」
「皆そう言うだろ。東京は星が見えないって」
「星?」





すらりと伸びた長い人差指と中指で挟んだ煙草から灰を落としながら、はけらけらと可笑しそうに笑った。
土方は馬鹿にされたように感じて少し眉を寄せたが、怒ったりはしなかった。の次の言葉を待っていた。





「東京でだって星は見えるよ、だっていつでもあるんだもん。見えないはずない」
「田舎ではもっと綺麗に、それこそ毎日満天の星空が見れるらしいじゃねェか」
「さあ、そうだったかな。そんなもの見えなくたって東京はこんなに明るい。星が見たいならプラネタリウムにでも行けばいいのに」
「プラネタリウムとはワケがちげーんだろ」
「ふうん? トシさん意外とロマンチストなんだね」





なぜだか嬉しそうに言うに、土方は居心地が悪くなって新しい煙草に火をつけた。大人びたは苦手だと思った。 丸きり子供の様な彼女が煙草を吸っているところを初めて見た時にはちぐはぐな印象に戸惑ったものだったが、 実際、客観的にその姿を見てみるとそれはとても綺麗で、どこか外国のお洒落な国にでも居そうな一人の女の姿だ。 普段自分に子供のように懐いてくるがふと見せる大人の女の表情は、彼女が別人になってしまったかのような、 まるで急に自分から離れて知らない場所へ行ってしまうかのような得体の知れない不安を土方に植え付けた。 はそれを知るはずもなく、まるで彼を弄ぶようにからから笑ったり、じゃれたり、冷たく目を伏せたりした。 たとえば全て彼女の計算上のことだったとして、それでも土方はいつもを傍に置いておきたかった。どこにも手放したくなかった。 短くなった煙草を灰皿の上で押しつぶしたは、またいつものに戻って人懐っこい笑顔を土方に向ける。





「そうだ、今度水族館連れてって」
「水族館?」
「一緒にクラゲを見るの。何時間も。あたしが飽きるまで!」





ついさっきまで涼しげな色をしていた瞳はもう純粋な茶色にくるりと塗りつぶされて、 きらきらと輝きながら笑いかけるから、土方は心の何処かで静かに安堵して微かに口の端を上げる。 すっかり普段の通りに戻ってしまったは立ち上がってまたベッドに軽く飛び跳ねて乗っかり、胡坐をかいて座った。





「なんでクラゲなんだよ」
「トシさんにクラゲを見せてあげたいから。本物のクラゲを見たことある?」
「あるけど。そんなじっくり見た事はねェな」
「もったいない。絶対面白いに決まってるのに。だから見に行こう」





今度の休みにな。と了承した土方に、は満足気に笑う。 ―――ああずっとそうしていてくれたらいいのに。自分の傍で、そうやっていつでも無邪気に笑って、 わがまま言ったり困らせたりしながら自由に飛び跳ねて、そうしていてくれたらそれだけでいいのに。 そんな願望を直接に話したことはない。話せば音も立てずにどこか遠くへ逃げて行ってしまいそうな気がする。 でももしかしたら、一生傍にいてくれるかもしれない。の反応を確定できない土方には、 彼女に対する想いを話すことはどうしても出来なかった。賭けるにはまだ、勇気が無い。 だから今はただ傍で生きていてほしかった。土方にはの存在が必要だった。 が傍で生きている事が、土方の満足だった。 そんな事を知らなくても、はいつもの笑顔で笑っては彼を安心させる。










―――――――― 煌きの隙間