いつからだったか、あたしはイチゴ牛乳を買うことが癖になった。 苦手だった甘いチョコレートにも今じゃ依存している。 今までじゃ考えられないくらい、甘いものなしじゃ生きていけなくなってしまった。 今日もお昼休み、お弁当を食べ終わってザラッと手のひらに出したマーブルチョコレートを 3粒ほど一気にぱくんと口へ投げる。すると土方が寄ってきて、ちょっといいかとあたしに言った。 なによ、と尋ねても土方は答えない。一緒にお弁当を食べていた友達は気を利かせて 席を外してくれた。土方は友達がいなくなった、あたしの前の席に座って、 机の上のイチゴ牛乳のパックを見たかと思うとため息をつく。 なあに?怪訝な顔をして訊いてみれば、今度はチョコレートを見て、なあ、とようやく口を開く。





「お前あれ、今日古典の時間いなかったろ」
「え?ああ、うん、今日寝坊しちゃって」
「銀八の授業だったのにな」
「そーなの、受けたかったー」





口の中でばらばらに砕けたマーブルチョコレートを飲み込んで残念な声を溢す。 そーかとなんだかふよふよと定まらない視線をあたしの机の上を泳がせている土方は言って、 再びそーかと曖昧に呟いた。何か言いたそうな感じが明らかに流れている土方に、 あたしはもう一度なに?と問いかけてイチゴ牛乳に手を伸ばす。 土方がなにか呟いた。あたしは聞き取れなくて「え?」と聞き返す。 ずーっとパックがへこむくらいイチゴ牛乳をすべて吸い込んでごくんと飲んだとき、泳がせていた視線を 急にあたしに向けた土方は、確かに言った。





「結婚するんだってよ、あいつ」





べこ、とへこんでいたパックが戻った。は、ととてもゆっくり零れた声があたしの混乱を示す。 土方があたしから視線を逸らして机の上のマーブルチョコレートをざらりと手のひらに出し、口へ運ぶ。 あたしは急な現実に頭が付いていかなくて、笑う。「なにそれ、」





「、うそでしょ?」
「うそじゃねェよ、今日授業の最後の最後に言いやがった」
「なんて?」
「先生結婚するから。って」





ゆるく脱力した声でそう言って、やる気はないけれどでも 幸せが満ちているように笑う銀八を、あたしは一瞬で想像した。
待って、結婚?結婚って、結婚、って、

ごくんと唾を飲み込んで立ち上がる。
立ち上がった瞬間に 机の上のチョコレートの筒が倒れて、おい、と土方の声が聞こえたけどあたしはもう教室を出ていた。
頭の隅の隅で机の上に倒れた筒からばらばらと散らばった色鮮やかなチョコレートの粒を見た。
指先が震える。力が入らない。











お昼休みは外に出ればすぐ煙草を吸っている先生を見つけられる。 今日だってそうだ。いつもと同じ。先生の後ろ姿からぷかぷかと煙が浮かんでいる。 あたしはなんだかやけに速く打つ心臓の音を聞きながら先生に近付いて声をかけた。 白い後ろ姿が振り向いて、おー、と相変わらずやる気の無い声で言う。





「いつ来たのお前」
いつも通りの先生の声にちょっとほっとして、一歩一歩近付きながら3限目、と答える。
「寝坊かコノヤロー」





ごつんと煙草を持っていないほうの先生の手があたしの頭を小突いた。 いたいよって不満をこぼしながら笑うあたしもいつも通り。 だけど手が震えている。笑い方もあんまりわからない。 いつもは気にならない、ぷかぷか浮かぶ煙草の煙が今は変に気になった。 ぼんやり煙草を見ていると、左手に目がいってすぐに気付いてしまった。 すうっと口の中が渇いていくのがわかる、喉はすでにからからだ。 さっきまで喉に流していたいちご牛乳の味ももう思い出せない。 おかしなことに、ばらばらに散らばったマーブルチョコレートの鮮やかな色が目の裏をちらついた。 へんだな、頭の奥がちかちかするよ。





「先生、あたしがいない古典の時間になに言ったの?」





悪戯っぽい表情を作って笑って問いかける。 でもやっぱり上手くいかない笑顔はすぐに崩れて、あたしは笑えてないことを隠す為にうつむいた。 煙草の灰が地面に落下して崩れるのを見た。先生は悪戯っぽい声で「ナイショ」だと言った。 あたしは顔を上げられないまま、地面を見つめたままで笑顔を作る。けれどだめだ、うまくいかない。 固まってしまった頬っぺたの筋肉はどうにも持ち上がってくれなくて、 あたしはうつむいたまま静かに声を絞り出す。





「結婚、するの?」





どうしても先生がどんな表情をしているのかが見たくて、 あたしはそうっと目線を上げた。 先生は口元に見たことの無い優しい笑みを浮かべて、あー、と溢したかと思うと まあなァとちょっと素っ気なく言った。 半分くらい灰になった煙草を口元に持っていって煙を吸い込んだ先生が確かに笑っていたのを、 あたしは皮肉にもはっきりと見てしまった。 そして皮肉にも、幸せそうなオーラが滲んでいることにも気付いてしまったのだ。 あたしはすっかり顔を上げて、ただぼんやりと煙草を吸う先生を見ていた。 ああ、どうしよう、いやだ。先生が結婚するなんて、いやだ。 急に置いていかれた気分でいっぱいになる。最初っからあたしは先生の隣になんかいなかったけど。 しらないひとに、しらない顔で、幸せそうに笑って、聞いたことも無い声で好きだと囁くのかな。 考えただけでくらりとして、もういっそ倒れてしまいたくなった。 きらきらと光る指輪を今すぐ盗って逃げ出して、先生の追いついてこなくなったところで ずうっとずうっと遠くへ投げ捨ててやりたいと思った。 なんだかこの世に存在するどんな言葉でも表現できないような感情でいっぱいになって、 込み上げてくるものが喉に詰まって酸素の通り道が遮断されて、息が止まってしまいそう。





「なんつー顔してんだ」





ぽん、と頭に乗っかった先生の手に心底びっくりして大袈裟に肩を跳ねさせる。 あたしは自分が今どんな表情をしているか分からなかった。表情をつくることも忘れていた。 ただ、先生の手が頭に乗っかった反動で、すうっと息が吸えた。 あ、先生、今あたしに触れてる。 けれど手はすぐにどいてしまって、先生は足元の空き缶を拾ってその中にすっかり灰となった煙草を捨てた。 そのときに先生が動いたせいで揺れた空気がふわりと先生の匂いを運んで鼻を掠めた。 煙草の匂い。あたしはとてもとても苦しかった。 まだ周りに浮かんでる気がする煙草の煙に纏われながら、とてもとても、嫌なことを思い出した。 先生は、あたしよりずうっとずうっと、大人。





「先生、」








結婚なんか、しないでよ。













「……おめでとう!」





精一杯の笑顔で笑って、とん、と軽く先生の肩を叩く。
先生の表情もはっきり見ないままに、あたしはその場を後にした。
先生がどんな顔をしていたのかは、知らない。走って逃げた。


意気地なしだと自らを罵る。 結婚なんてして欲しくないと駄々を捏ねてみっともなく告白することを、あたしはしなかった。 好きだから困らせたりしないようにって、自分の気持ちを押し殺して表面だけの祝福を捧げるなんて、 いくらそっちが正しいことだったとしても、そんなの意気地なしのすることだ。 あたしはみっともなくても告げたかった。先生が好きだって言いたかった。 言わなかったらあたしが長い間自分の中で大切にしてきた想いはどうなるの? なかったことになんか出来ないくせに。出来ないくせに。 誰もいない階段の裏に隠れるように駆け込んで、薄暗い空間の中でがくんと膝を折る。 ばたばたと無音の涙が零れた。埃の落ちる床なんて気にしないで、 嗚咽の零れそうな口元を両手で押さえてへたり込んだままうずくまった。



あたしのしてたことなんて何にもならなかった。 先生の好きなものを好きになって、追いかけてきたけど、結局何にもならなかった。 あたしが先生を想って甘いものに依存し始めたりなんかしている時にも、 既に先生の隣ではあたしのしらない、見たことも無い彼女が笑っていたんだ。 先生のあんな穏やかな幸せの滲んだ表情を、あたしは初めて見た。 あたしは知らないことだらけだった。 あんなに甘いものが大好きなのに、先生からは少しも甘い匂いなんかしなかった。 ただ苦いだけの煙草の匂いしかしなかった。 あたしはそれを、知らなかった。 大人だけが吸う事を許された煙草は、今まで必死で 追いかけすぎて気付きもしなかった先生との距離をあたしに見せた。 先生とあたしは、教師と生徒だった。 でもそれでも、あたしは先生が好きで好きでたまらなかった。
言えもしないまま、先生は届かなくなった。











断ち損ねた残像
(じゃあこのあたしの「好き」はどうなるの、)